天使の息子がひとりいます。

天使の息子がひとりいます。

2016年3月、最愛の息子は1歳9ヶ月で突然この世を去りました。それまでと、それから。いろんな思いを綴ります。

「二人目」という言葉の重い意味

※心拍確認後の記事ですが妊娠のことは書いていません

不妊治療や生々しい話を含みます

※暗くて重いです

 

 

また不妊治療に通い始めたら、

そのことを書きつつ話していこうと思っていたことですが、

この記事でまとめてお話させてください。

カテゴリは近いうちに変更します。

 

わたしは息子の育児をしていた間、

二人目が欲しいとは全く思っていませんでした。

そもそも自分が一人っ子で、親の手と愛情を一身に受けて育ち、

それを重いとも寂しいとも思わず幸せだったから。

そしてなにより、息子の発達がとても遅くて手がかかったし、

このまま成長していってどうなるのかわからなかったからです。

むしろ、息子の将来に過度な期待を持つより、

起こりうる可能性をすべて考えて、

その想定をするようにしていました。

 

具体的には、発達は追い付かず精神発達遅滞と診断され、

療育にフルで通い、支援学級に行き、将来は障害者雇用や作業所等で働く。

そうしたらいろいろと送り迎えも必要だし、

先に死ぬわたしたちは息子にできるだけ貯金を残さなきゃいけないし、

次の子を妊娠して育てる余裕はないな。

そもそもまた治療に通わないといけないんだから、

その余裕ができる頃にはわたしはいくつだろう。

この手に赤ちゃんを抱くことはきっともうない。

でも息子は最高に可愛くって愛してるし、それでいい。

 

もちろん、希望や期待も持ちつつですが、そう考えていました。

今もこの気持ちを思い出すだけで涙が止まりません。

本気でした。本当にそれでよかったんです。

なのに死んでしまうなんて・・・

 

三月半ばに息子を失って。

妙に冷めた気持ちでわたしは思いました。

「また一からやり直しだ」

「こんなにズタズタになって、高齢の不妊治療からやり直しだ」

そう、もう、子どものいない暮らしに戻ることはできない。

あの存在感を一度感じたらもう無理だ、夫婦二人には戻れない。

その思いが前提になっていました。

 

すぐに避妊をやめました。

不妊症であることに加え、今年35歳になるわたしには時間がありません。

完全母乳を続けていたこともあって産後一年五ヶ月でやっと再開した生理は、

やっぱり周期がバラバラで、不順でした。

わたしの不妊原因は排卵障害です。

ホルモンがうまく出ずに卵が育たない。

育つのに時間がかかり、よい卵にならない。

そのため黄体ホルモンも十分に出ず高温期も短い。

薬を飲んでも注射を打っても、ダメなときはダメでした。

そして夫は乏精子症と精子無力症で、

数値にばらつきはあるものの基準値を満たすことは少なかったです。

だから、避妊していたのも、避妊をやめたのも、

わたしたち夫婦にとっては気休めみたいなものでした。

息子を妊娠した周期も人工受精をしなかっただけで、

注射はたくさん打っていましたから。

また不妊治療に通い始めるまで、基礎体温を測ってただ可能性を作るだけ。

そういうことでした。

 

もう、これこそが絶望だと思いました。

本当に本当に悲しくてつらかった。

不妊治療、発達の遅れ、息子の死、今度は高齢での治療。

どうして?どうして?

子どもは生まれたら育つものでしょう?

あんなに愛して大切に育てたのに。

どうしてわたしばかり?

このままではダメになる。

からっぽの生活から少し離れるためにも、

治療費を捻出するためにも、

働かなくてはいけないと思いました。

 

そしてパートや派遣に応募し始めたのが、五月の初めごろ。

治療に支障の出ない場所と時間の条件を満たす仕事を探し、

マザーズハローワークに通った場所で息子の死を告げて職員を絶句させ、

面接で子どもの有無を聞かれていないと答え。

不定期の通院のために突然の遅刻と早退をお願いし、

それでも採用していただけた現在の職場で働くことになりました。

 

次の子を授かるために、子どものいる人生のために、

わたしは一歩踏み出すことを決めました。

あまりにも重い意味を背負ったわたしたち夫婦の「二人目」を目指して…

それがちょうど六月になる頃で、

下腹部は生理直前のいつもの痛みを感じていました。

生理中に最初の診察に行けるように数年ぶりのクリニックを予約し、

こちらも数年ぶりに始まるお仕事の準備を始めました。

 

奇跡にはなにも気付いていなかった。

そんなものあるなんて信じられなかったからです。